ぐんにゃり備忘録

アイドルを愛するその日暮らし

広島に原爆を落とす日をみてきたよという話

ネタバレしないでこのお芝居のことを書くのはなんだかとてもむずかしいので、ネタバレして書きますので、これからご覧になる方はご注意を。

ゲネは外れちゃったので観に行けなかったんだけれど、初日に南座へ行ってきました。

犬子恨一郎のほうのやつを読んでから観に行ったのですが、ディープ山崎に会うのは初めてなのでまったく何の知識もなく観たのに等しいです。

恨一郎のほうは在日で、日本人じゃないことで愛国心が伝わらなかったり、差別されたりするんだけど、ディープもロシアとの混血でとつかくんが茶髪だったから見た目がロシア人に寄ってる日本人なんだろうな。差別されてるという表現があったし。青い目って言ってたし。

うちは父も母もその父も母もそのまた父と母も埼玉で、ずっと同じ場所に住んでいて、先の大戦では食べ物がひもじかったくらいしか話を聞かなくて、身内を兵隊さんに取られても戦地へ赴く前に戦争が終わったと聞きました。いわゆる悲惨な戦争体験というのを身内から聞いたことがなかった人生でした。広島にも今まで行ったことがなくて、つい3年前くらいに旅行でやっと、はじめて行きました。しかも理由は友達に会いたいからであって、原爆ドーム平和公園を観に行くという目的ではなかった。それまで自発的に広島に行きたいと思ったこともなかったです。

その時に広島に住んでいる友達に原爆ドームへ連れて行ってもらいました。初めて見るそれは、テレビでみたのと同じものでした。ほんとにテレビで観たのとおなじで、つい「テレビで観たのと同じだ…」って言ってしまったくらいです。友達は「そうだよね、同じだよね」って笑いながら言ってくれたけれど、初めてみた感想としては中々最低だったな、と今は思っています。平和公園を歩いて、折り鶴を見て、資料館の近くまで来て、友達が「行ってみる?付き合うよ」と聞いてくれたけれど、行けなかった。見るのが怖くて。直視する勇気がなかったです。なので、今でも行けずじまいです。

なぜこんな恥ずかしい子供の作文のようなことを書いたのかというと、広島~を観終わったあと急にその旅行のことを思い出したからです。なんであの時わたしは資料館を見なかったんだろうな、と思ったからです。理由は簡単、怖かったからですが、なんで行かなかったんだろう、とそればかり思いました。京都にはその日泊まったので、10分くらい離れた場所にあるホテルまで満開の桜を見ながら歩き、ずっとそのことを考えていました。

「広島~」は戦争の悲惨さや残酷さを生々しく、いわゆる戦争映画や戦争を題材にしたドラマなどのように描いているお芝居ではなくて、南の孤島で戦勝国になった時に敗戦国であるアメリカをはじめとする連合国に配給する納豆をひたすら作っている海軍102師団の納豆まみれの生活のシーンがほとんどでした。けれど土着の民族の女の子を手籠めにして酷い差別を投げつけたり、少佐は少佐で自分が賢いもんだから部隊の人たちを下にみていたり、でもなんだかんだみんなのことを愛していたり、部隊の人たちもなんだかんだ少佐を愛していました。私は戦地での厳しい、極限の状況を体験したことはないけど、戦局が悪化して敗色濃厚になるまではきっと占領した土地でこういうのに近い、一瞬の平和的な刹那はあったんだろうな、と勝手に想像しました。いや体験したことはないので本当に身勝手な想像ですが。

ヒットラーがいわゆるよく描かれる理想のためにどんな手も使う残虐な独裁者ではなく、恋する女のために戦争をできうる限り引き伸ばし、市民を犠牲にしてでもドイツを原爆投下地にするというエゴの限りを尽くす、愛に殉じた、というと聞こえはいいけど巻き添えを食う、というか既に食ってる市民からしたら最低な独裁者として登場するのですが、愛を自分なりに貫くシーンでしか出てこないので、そこだけ見たら愛か…って思うけれどその陰にたくさんの犠牲者がいるのだなあと思うとなんていうエゴイズムなんだろうと思えてしまって苦しくなりました。

日本は戦争に負けて、天皇を戴いたままデモクラシーを起こしてこの国は変わるという青写真を知っていて、それでも何よりも誰よりも愛する男のために工作活動を続ける夏枝にもすごいエゴを見たし、わたしのために勝ってと言ってくださいと懇願する少佐にもものすごいエゴを見たなと思いました。強気なことを言った一秒後に死にたくない死にたくないと怯える気の小ささもあるけれど、愛する女と愛する祖国とデモクラシーを気にかけながら孤島でひたすら納豆を作る少佐がどんどんいとおしく、かつ悲しく見えてきて、とつかくんだな、と頭では思いながらもどんどん少佐に対しての思い入れみたいなものが増してきたところで、最後の長い長い独演で頭をぶん殴られたような気持ちになりました。終わったあとはもうぼーーーーーーーーーっとしてしまって、ぼーっとしながら初日を終えたとつかくんに拍手をしました。長い長い独演の台詞で、ずがーんと、というかなんか鈍い音で殴られたみたいな気になりました。でもその殴られた感じで、少佐がくっきり見えたような、いや勘違いかもしれないけど、そんな気になりました。

ぼーっとしたまま南座を出て、道すがら桜が美しく咲いているのを見て、さっきまで降っていた雨も止んでいて、綺麗にライトアップされた桜がくっきりと美しくて、それを見ながら歩いていたら、さっき書いた「なんであの時資料館見なかったんだろう」という今さら考えてもしょうがないことがふっと浮かんできました。そしてホテルに到着するまで、桜を横目でみながらずっとそのことを考えていました。

そしてホテルで仕事をして待っていた同行してくれたnotじゃにおたの友達とそのあと食事をしていたら、いつのまにかそのことは忘れていました。お店を出て、酔っぱらって見る京都の桜はほんとうに綺麗でした。桜が毎年春になると咲くこの国はほんとうに美しくて、この国に生まれてよかったなーと酔っぱらった頭で考えました。でも頭のどこかで、さっき鈍い音で殴られたような気持ちは残っていて、それはなんとなく今でも残っていて、もうすぐ東京公演がはじまりますが、また観に行ったらその気持ちがよみがえってしまうんだろうな、それはなんだかこわいな、と思いました。

でもその気持ちをまた体験したい自分もいて、つまり東京公演が楽しみだなあと今はすごく思っています。

 

なんだかまとまりのない、何が言いたいのかわからない文章だけど、1週間経ったのでこれでも整理して書いてみました。

今年中、とは言わないけれど、近いうちにまた広島に友達を訪ねていって、その時はもっとちゃんと原爆ドームを見て、資料館もちゃんと見ようと思っています。見たからどうなるというわけでもないけれど、今回不意に思い出した「どうしてあの時資料館を見なかったのか」という疑問を解消したいから見ようと思っています。これも私のエゴなんだなあと思うと、人間はエゴまみれで生きているのだなあ。